子供たちをまっとうな人間とすべく教育していかねばならない立場の先生、また職上の立場の教育委員たちのあの無責任な、無慈悲な態度はいったいどういうことなのであろうか、人間性のかけらもないように見えてならない。わずか生まれて13年しか生きていない中学2年生が勉強して人生の土台作りにと勉学にいそしむ場所で3人からいつもいつもいじめられていた。周囲の生徒たちは見て見ぬふりをしないと自分にいじめが向いてくることが怖かったという。これはいじめられた人間にしかわからない恐怖と、なぜ自分がそういう目に合わないといけないのか?というわけのわからない状況に繰り返されるいじめの日々に生きて行くのがつらい状況がわからない人間は、もはや人間の外見をした動物、いや、動物以下であろう。
テレビで自分たちは悪くないと言い訳をしながら、自殺の原因がどこか別に原因があるがごとく無様でみっともない姿をさらして言い訳するのは、一時も見たくない不細工な人間以外、何物でもないのである。人間性を磨いてきた大人であるべき人間のかけらもない。もし、自分の子供がそういう立場にあったら、いったいこの教育委員会の人たちは(みんながみんなそうではないことを願うが?)どういう風に行動するのか?こういう世の中であっていいのか?ましてや、いじめた子供たちは何の反省もできない。おそらく、自分たちに何も及んでこない今の騒ぎに、陰でほくそえんでいるはずである。そおいう事にも倫理感の低下を感じてならない。いったいこの国はどういう方向へ向かって行こうとしているのか?
いじめられて13年の経験で終えてしまった少年の日々を思うと悲しくて哀れでならない。自分のミスで苦しくて自殺する人もいる。道に迷って、喧嘩、喧嘩の毎日であらぶれた人生を送り、行き着くところ早死の人生もある。何れ人間は遅かれ早かれ死に向かって日々生きているのではあるが、だれ人に他人のこのかけがえのない人生を遮ぎったり、命を奪ったりする権利があるというのか?これはいじめた側に徹底して教え込まないと、単なる説教くらいでは、人間の性格はそう簡単には変わらない。また、親から受け継いできた質は教育して変えていくことより、しつこくて根が深いのである。
学校で受ける”人をいじめては、いけないよ。”という教育言葉を”はい”と言って聞いたとしても、”あいつとは合わない、あいつは自分にとって邪魔者だ。”という現実の切羽詰まった状況での判断には、自分のどす黒い、欲望が一切の道徳心を吹っ飛ばしてしまうのである。教育者にして保身のための嘘を平気で突くのである。狡猾に生きて行こうと徹底的に自分の立場を擁護する。わずか13歳の子供たちが立派な道徳心でのみ、動くことは考えられない。このことを見て見ぬふり、または細部まで目が届かない。いざ起こってしまったら、世間に発表してしまったら、学校の恥である。との判断がまさにこのいじめ側の生徒と同じレベルに見えてならない。
確かに、大人の世界全て強いものが弱いものを押さえつける。口でののしって排斥する。たとえば宗教団体に入っている人をみんなして無視する。口も利かない。そばに来たら、逃げる。これらと同じレベルで或る。会社でも、パワハラ、セクハラ、人権擁護委員会と結構教育機関が教育を実施しているが、現実にはそういう非人間的な事件がなくならない。いったい人間のセコさはどこまで行くのか、もちろん、いじめる側の人間にも、その人にはその人のやむにやまれぬ事情があるのかもしれない。が、戦争が人間の心の中で開始されるように人間の心という物は、本当にあてにならないのである。政治家、先生、法律家等もみな本質自分の欲望でうごめいている。このようにしなくてはいけないのだと修身で理解していても、口ではうまいことを表現しても、実際はそのように行動していない事がおおいいのである。
もしこういうことがまかり通る世の中が来るようなら、人が信じられなくなるではないか。どこに行くにも護身用具を持っていかないと自分を守るすべがなくなる。今まで何度こういうことがあったのか?誰もこの件についてさばけないことがわかる。自分の身は自分で守らないとならない時代が来ているようである。警察も自殺した両親の訴えに数回無視してきたようであるが、今日、初めて動いた。教育分野と警察分野のエリア問題をどうのこうの言う人が、解説者の中にはいるようであるが、弱い庶民を守る警察であってほしい、特に教育委員会が保身に回っているようでは、処置無しではないか?教育が将来の日本の柱となる人を育てる機関だから独立行政としてあるわけで、教育委員会がどうにもならないレベルの低い人間で覆われたら、これはもはや、自浄能力はないようにみえる。わたしは門外漢ではあるが、自殺した少年が味わったつらさ、悲しさ、苦しさを思うと、居ても立っても居られない気分になる。マンションの14階から飛び降りることは、ものすごい恐怖であり、本当に勇気がいるのである。が、それよりもつらかったということである。このことに理解できない人はもはや人間ではないように思えるのである。